南濱墓地 墓石調査 Pブロック

まずは配置図を作成しました。

   各列をA~Vとしてそれぞれの墓石に番号をふって A-3 のように区別します。(あ~面倒だなあ)
   青い四角は一族墓で、現在も祀られています。他に祀られているのは小数です。


このブロックにはご覧の大きな墓とその左側の塔婆形の墓が目立ちますが、さてどうでしょう・・・


右から順に
P-1  正面   南無阿弥陀仏
    右側面  寛政七乙卯七月四日(1795)
         釈  浄誓
            妙誓
            享和二●●●●●(1802)
    左側面  未七月十九日  午二月十八●
         釈   智教  尼浄智
         天保八●十二月十三日  同年八月二日(1837)
             教正  尼妙教
             智正  尼妙●
         閏六月二●   ????
    裏面  安永七戊戌十二月建之
    蓮華座
    台座   南森              南森町のこと(当時は北森町もあったが)
         近江屋
    花立   近江

      竿石が上の笠で守られているのに表面が黒いのは、墨を塗ってあるからでしょう。
      さらに文字には朱色をさしてあります。
      裏面左側には墨の文字跡あり、彫る予定だったか?

P-2  正面   水谷盛純之墓
    裏面に文字があるのですが薄くて読めません。

P-3  正面   辻壽清墓
    左側面  清霧?厳空墓
    裏面に文字があるのですが薄くて読めません。
                辻壽清と清霧?厳空は別の人物なのでしょう。


P-4  正面   了慶    宗信
          妙圓    知秀
    裏面   天明八戊申二月廿六日(1788)  天明九●●●月八日(1789)
         寛政二庚戌●月十二日(1790)  安永四●●●●(1775)
    台座   竹中氏
                追加していったのではなく4人分を一度に刻んだのです。

 
P-5  正面    義正
          釈 義道
            義妙
    右側面   本空妙誓信女
           遥到信士
           速浄顕●
           現山信士
           海心浄七信士
    左側面   妙●    妙家
          足久    義●
          竹中氏
          義重
    裏面    文化三丙寅年九月廿一日(1806)
    台座    北野村住
          和泉屋
          長七墓
                南濱近くの北野村に住む長七が文化三年に亡くなった墓に
                正面両脇に小さく2人、両側面に10人を追加したのです。
                興味深いのは、左側面の名前の並び方で、中央「竹中氏」と左端「義重」の間に隙間があることです。
                なぜ詰めなかったのか?遠慮した?遠慮させられた?

 
P-8   正面          文久二壬戌七月十一日(1862)
          貞證    明義
          尼妙信
          尼秀定
    右側面   了入    智了
           浄圓    妙●
           智春    順誓
    左側面   補修あるも全面剥落
    裏面    浄
           了●
           妙●
    台座    豊喜
                この墓が建てられたのが何時なのか不明です。
                明義の追加時が文久2年というだけです。
                左側面の剥落が何と補修後に起こっているのです。
                接着力の弱い材料を使ったというよりも、ハガレた薄片の裏側が
                元々の風化のため弱っていたのでしょう。再度ハガレたわけです。
                第2次大戦後のことではないでしょうか。

 
P-8よりすこし小さいのに多数の名前と日付があります。
P-9  正面    妙圓   欠落   教善   教圓
               二月十三日 妙順   教念
           教圓   元禄   妙信   貞久
                四     了信   教俊
           教隅   欠落
    右側面   ●●   延昌   延●
          先祖代々墓
           妙秋   妙昌   妙智   妙照
    左側面   教春   正徳三巳(1713)
                 二月十一日    教浄
          教意   宝暦六子(1756)  明和二酉(1765)
                八月十二日     誓浄
          妙意   延享四●(1747)  ●●●●
                九月二●      妙浄
          妙清   元文四未(1739)
               二月十六日
    裏面    教清   元文二巳(1737)   願心   教空
                壬十一月廿六日
          妙空   安永六酉(1777)   妙清
               六月廿六●
          妙清   教順
                ●真
             最も古い日付は元禄年間(1688-1704)、最も新しいのは安永6(1777)の約90年間にまたがり
             次々に追加されています。


P10,11,12 この3つの墓は一族のもので、今も祀られています。
P-12  正面   寛保三癸●正月廿九日(1743)   270年前のものです。
         釈祐春
         釈尼貞春
    蓮華座
    台座   田中屋
         九兵衛


P-16  正面   成辧信士   智鏡信女
          先祖代々一家精霊
          智順信女   冬顔童女
    右側面  教信
          正善
          ●喜
          ●誓
    裏面   弘化三丙午年十一月立之(1846)
    台座   中喜
         醤油徳
         松与
            この墓を紹介する理由は台座の名前にあります。
            屋号がなぜ3つも並んでいるのか?
            兄弟3人が別々の店を起こし、お金を出し合ってこの墓を建てた、そんな風に想像します。


倒れている墓石がこのブロックでは古いのです。
P-a  正面   元禄九●(1696)
         万寶院宗??
         四月廿●
           この「万宝院」の戒名をつけた墓がP-19, P-20 なのです。

 
右 P-20  正面   本阿目照信女
           観鏡了心信女  霊
      右側面  宝暦十庚辰年四●●●(1760)
      左側面  寶暦十一●巳年四月八日(1761)
           万寶院秀●建
      裏面   明治廿三年十一月廿八日(1890)
           知足院法印権大僧都徳順
           延壽院法林貞操禅定●
           同年十月廿七日(1890)

左 P-21  読めません
           この2つを並べたことには意味があります。
           P-20には当初あった笠石が無くなっているのです。(それがP-18の上にあるものかどうかは疑問)


そのような目で見ると、この笠石も無くなっています。明らかにバランスが悪いです。
P-24  正面   善正  教誓  浄運  淳意
          妙壽  妙雲  妙性
          浄圓  余壽  浄喜  教念
          妙光  妙喜  妙教  ●教
    右側面  文政十丁亥歳八月九●(1827)